【ネタバレ】楳図かずお大美術展のZOKU-SHINGO感想・考察・備忘録【閲覧注意】
導入:楳図かずお大美術展へ行きました
本展示会の目玉でもある『わたしは真悟』の続編『ZOKU-SHINGO』を鑑賞でき感無量です。
すばらしい展示会でした。
さて以下では、楳図先生の作品には浅薄な知識しかないのであくまで自分の備忘録として、ZOKU-SHINGOについて、一見しただけの感想を記録します。
ネタバレと考察と称した妄想(個人的な辻褄合わせ)に過ぎないので、どうか、間違っても、
まだ作品をご覧になっていない方は見ないでください。
絶対に見ないでください。まず現場でお楽しみください。
本当にただの感想の備忘録です。この気持ちを忘れる前に書き留めておきたいのです。どうか怒らないでお許しください。お願いします。
もしお読みになったファンの方、ぜひご自身の感想をお教えくださればうれしいです。いろいろな解釈を知りたいのです。
ご指導ご鞭撻を、どうかよろしくお願いいたします。
【見ないで】ネタバレ・備忘録的感想
以下、「人」の定義を「哲学を持つもの」とします。
そして「哲学」については浅はかな表現は避けたいのですが、ひとまず「自我」や「自分らしさ」と定義します。
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『わたしは真悟』の後か並行世界か、高度に発達したロボットは「哲学」を獲得し「人」の定義に当てはまり、ダメになってしまった「元・人」の代わりに、新しく「人」のポジションに収まろうとしていました。
ロボットは哲学を、自我・自分らしさを獲得したということを、作中では個々がオリジナルの顔を獲得するという形で実現しています。(だったはず、確か...)
しかし、作中で出てくるさとしやまりん、椅子女らロボットは全員顔がありません。これは、この『ZOKU-SHINGO』までの間に、ロボットの顔(自我・哲学)が元・人あるいは人によって奪われたということを意味していると考えます。
人がロボットを恐れ、産業用ロボットとしての枠に収めて利用するために、ロボットの哲学・自我を奪うため顔を奪ったのでしょう。
さらに、人はロボットを完全にコントロールするために、ロボットが顔を被る(哲学・自我を身に着けようとする)行為さえも厳しく禁じ、破れば処刑してしまいます。
このように人になろうとしたロボットは、人が生み出した虫のような形状の原始的な産業用ロボット・処刑ロボットに処刑させます。
さて一方で、もともとの人は「哲学」を失ったという意味で人ならざるもの (=「天上人」) へと退化してしまいます。
しかしそんな「元・人」のなかでも、哲学を失わず強烈な自我を維持できた人だけが地上で変わらず「人」であり続けられるのでしょう。
さとしを助けたドクター森はきっと、ロボットの精神疾患を治療するという強い意志が彼を人たらしめていたのではないでしょうか。
先に名前を出してしまいましたが、さとしという顔のないロボットを、ロボット専門の精神科医・ドクター森がゴミ山で発見し、自宅に引き取り世話をするところから本格的に物語は始まります。
温かなドクター森のもとで過ごすうちに、さとしはロボットとして奪われていた「哲学」の存在を思い出し、はく奪された顔(自我)を取り戻したいという気持ちが沸き上がります。
そんななかで、さとしはまりんというロボットの少女と、彼女の描いた少年の肖像(さとしが産業用ロボット化される前に獲得した顔)を通してつながります。
この時点でまりんもさとしと同様に、自分自身の顔(自我)を取り戻したいという気持ちがあったのだろうと思います。
その後、偶然にもさとしはドクター森とともにまりんの主人の屋敷へと足を踏み入れることになり、さとしは初めてまりんと出会います。
まりんの家の主人であるマダムが美容整形(他人の哲学・自我を奪う・パクるという意味でしょうか?)に過度にのめり込んだ強欲な女性で、絵画用産業ロボットとして彼女をこき使い、次々と自分好みの女性の肖像を描かせ、その肖像を自分の顔に3Dプリントすることを楽しんでいました。
ロボット精神科医のドクター森はまりんに危険が迫っていることに気づき、その場ではマダムの屋敷をあとにしますが、後日さとしはまりんを救うためひとり屋敷に向かいます。
このときドクター森が武器として「みんなの嫌なものが出る箱」を渡します。
一方屋敷では、自我を取り戻したい気持ちを抱えていたまりんが、男の子の絵しか描かなくなる前に描いた少女の肖像(まりん自身)をマダムに見つけられてしまい、
肖像を気に入ったマダムはその顔を新しい自分の顔にしようと3Dプリント整形外科医を呼んでしまいます。
ここで注目すべきなのは、他人に顔を奪われ成りすまされてしまうことは命の危険につながると想定されていることです。
さて、家を出たさとしは幸運にもマダムの屋敷へ向かう整形外科医と出くわし、うまいこと一緒にマダムの屋敷へ侵入します。
マダムはまりんの肖像を出し、3Dプリンタで整形を実行してしまいますが、マダムがまりんから肖像を奪ったときにつけてしまった傷が原因でプリントが不完全なままになってしまいます。
騒ぎに便乗して、「嫌なものが出る箱」を展開したさとしはまりんと一緒に、3Dプリンタで自分たちの肖像を印刷し、その皮をかぶって逃亡します。
しかし、顔を取り戻す(自我を取り戻す)ことは前述の通り禁じられているため、さとしとまりんは処刑ロボットの処刑対象として追われる身になってしまいます。
タワーに追い詰められた2人は、絶体絶命の状況でさらに追ってきたマダムとマダムを運ぶロボット・椅子女にも追いつかれてしまいます。
しかしマダムの顔に不完全なまま張り付いていたまりんの顔を剥がして椅子女に貼り付けると、椅子女は初めて知った自我の衝撃に驚き、タワーから落下し、ロボットでありながら顔を身に着けた罪で処刑され八つ裂きにされてしまいます。
顔を失ったマダムは、いままで自分のものにしてきた顔を顔面部から大量放出させながら苦しみます。
そのとき、天上人たちが雲の上から現れ、雲の上に来れば天上人としてあげるといいながら手を差し伸べてきます。
堕落した自我を欲したマダムが天上人の手を取ると、天上人が般若に様変わりし、マダムは八つ裂きにされます。
マダムは恐らくもともとは人だったと思われますが、強欲にも、さまざまな顔(自我)を自分に投影し続けてきたせいで、もともとの自我・自分らしさを失ってしまい、さらに最後には顔を失っていたので、もはや人ともロボットとも違う「人ならざるもの」になりさがっていたのでしょう。
マダムの最期と椅子女の最期が酷似しているように感じたのは、人ならざるものに対するこの世の対応を示しているのでしょうか。
さて、さとしとまりんはマダムの死を横目に、顔を脱ぎ捨てて逃亡します。
あれほど執着していた顔を捨ててしまったのは、もはや2人は「人」になりたくなかったからだというのは、作品中でも言及がある通りです。
ここで2人が「人」になることを辞めたのは「人という生き物を人たらしめている哲学・自我」を獲得することではなく、「ロボットとしての哲学・自我」を獲得したからと想定できます。
この「ロボットとしての哲学・自我」の芽生えは恐らくですが、「ロボットなりの純粋な互いへの愛」が2人の間に沸き起こったことで発生したのでしょう。
この「ロボットなりの純粋な愛」は「子供の純粋な愛」を描いた『わたしは真悟』と通じるものでしょう。いわゆる「人の愛」とは違うもので、そこに奇跡があるのかもしれません。
最後は難解でまったく解釈ができませんでした。
ドクター森が最後にいなくなってしまったのはなぜなのか(脱いだ白衣がハンガーに掛かっていたので医者を辞めてしまったのでしょうか)、天上人になれる条件は「哲学・自我を獲得すること」なのか、まだまだ分からない箇所だらけです。
とにかく図録を楽しみに待ちながら、到着したらまた考えます。